銅板について・・・
2009年 01月 16日
【銅板の変色】
建築板金に使用される銅板は長い年月を経ると酸化され、美しい緑青を生じます。
銅は空気に触れると酸化を始め、表面に酸化第一銅や酸化第二銅ができ、銅板自身より
更に耐食性は強くなります。 緑青は各地の環境により塩基性炭酸銅や
塩基性塩化銅酸等の様々な化合物が複合生成されてできる水に溶けにくい
安定した保護膜です。
銅板の色沢変化の過程は、
赤橙色→褐色→暗褐色→黒褐色→黒褐色→緑青色となります。
銅板の変色は、メーカーが圧廷下直後から始まるので、流通段階における
変色を防ぐため一時的変色防止策を施し出荷しています。
一時的対策ですので、屋根葺き後、まもなく溶け去り、通常の変色が始まります。
【電食】
異なった金属を接触させると、一方の金属が陽極、他方が陰極となり微妙な電流が
生じ、陽極となった金属は腐食されます。
電食には特に気をつけて私用します。
【銅板屋根の歴史】
(飛鳥・天平時代)
日本における銅と建築のはじまりは飛鳥・天平時代と伝えられている。
この頃は銅がきわめて少量しか入手できない時代で、銅は主として宮殿や神社・
仏閣の主要部分の使用された。室町時代に入り銅の産出量が増え、建物の
飾り金具にも使用されるようになったが、屋根などに葺くだけ大量の板材を伸ばす
作業がむずかしく、職人の技術も伴わず屋根の利用は少なかった。
主な建物・・・
薬師寺・水煙相輪
西大寺・銅瓦葺
(桃山・江戸時代)
江戸時代になってはじめて銅を屋根に使用するようになった。
江戸時代に銅屋根が葺けるようになったのは、当時徳川幕府の力で銅を伸ばすための
労働力を集めることができたこと、また、新しい銅の加工技術が開発されたことが
伝えられている。当時、江戸における庶民の住居は、草葺きかこけら葺きが多く、
火災がおこれば飛火によって類焼により大火災が頻繁におこり、幕府は火災から
建物を守るため、屋根に銅を葺き替えることを提案した。
しかし、銅屋根が葺けるのは商売人や金持ちだけで、庶民の生活にはせいぜい
軒先飾り程度にしか使用されなかった。
主な建物・・・
日光東照宮・透塀他銅瓦葺き
名古屋城・天守銅瓦葺き
京都御所・清涼殿他銅瓦葺き
(明治時代)
明治に入り文明は急速に進展し、銅板が圧廷により大量に生産されるようになった。
明治の初期は建物も西洋文化が入りみだれ、新しい西洋のの建物が官庁や銀行、
外人所有の家屋、会社などに利用され、これらの建物に銅板が盛んに使用された。
主な建物・・・
第一国立銀行・屋根全体青銅瓦葺き
赤坂離宮・屋根銅板葺き
帝国京都博物館本館・屋根銅板葺き
ニコライ堂・ドーム状屋根銅板葺き
(大正時代)
大正9年12月に施工された市街地建築物法の『第八防火地区』の項において
金属板のことが記載されており、銅板は防火として法規で認められた。
地震や火災に丈夫な銅板が脚光を浴びた。
(昭和時代)
銅板の壁面化粧張り建築は、大正12年にはじまり昭和2年にはピークに達し、その後
順調に施工件数が増えていったが、昭和13年頃から利用が減っていった。
銅板の化粧張りが減った原因は、昭和12年の日華事変による軍需用の銅利用制限が
公布され建築物への銅使用は、一件当たり100kgを超える場合は許可制になった。
こうした理由から建築向けの銅利用が徐々に姿を消すに至った。
戦後の銅不足から新しい銅板屋根は激減した。
昭和30年代に入り神社仏閣や城などの復元、新築工事などがはじまり、徐々に
銅板が使われるようになった。
日本銅センターでは、昭和55年から57年にかけて、銅板屋根普及のために
全国建築板金関係者1万名を対象に銅板屋根技術講習を実施し、『住宅用銅屋根
標準構法』を作成した。
主な建物・・・
東京駅・屋根銅板葺き
銅板でできた建物には歴史がありますね。
それ程、長持ちがするということでしょうか。
次回はその銅板についてのQ&Aについてアップいたします!!
建築板金に使用される銅板は長い年月を経ると酸化され、美しい緑青を生じます。
銅は空気に触れると酸化を始め、表面に酸化第一銅や酸化第二銅ができ、銅板自身より
更に耐食性は強くなります。 緑青は各地の環境により塩基性炭酸銅や
塩基性塩化銅酸等の様々な化合物が複合生成されてできる水に溶けにくい
安定した保護膜です。
銅板の色沢変化の過程は、
赤橙色→褐色→暗褐色→黒褐色→黒褐色→緑青色となります。
銅板の変色は、メーカーが圧廷下直後から始まるので、流通段階における
変色を防ぐため一時的変色防止策を施し出荷しています。
一時的対策ですので、屋根葺き後、まもなく溶け去り、通常の変色が始まります。
【電食】
異なった金属を接触させると、一方の金属が陽極、他方が陰極となり微妙な電流が
生じ、陽極となった金属は腐食されます。
電食には特に気をつけて私用します。
【銅板屋根の歴史】
(飛鳥・天平時代)
日本における銅と建築のはじまりは飛鳥・天平時代と伝えられている。
この頃は銅がきわめて少量しか入手できない時代で、銅は主として宮殿や神社・
仏閣の主要部分の使用された。室町時代に入り銅の産出量が増え、建物の
飾り金具にも使用されるようになったが、屋根などに葺くだけ大量の板材を伸ばす
作業がむずかしく、職人の技術も伴わず屋根の利用は少なかった。
主な建物・・・
薬師寺・水煙相輪
西大寺・銅瓦葺
(桃山・江戸時代)
江戸時代になってはじめて銅を屋根に使用するようになった。
江戸時代に銅屋根が葺けるようになったのは、当時徳川幕府の力で銅を伸ばすための
労働力を集めることができたこと、また、新しい銅の加工技術が開発されたことが
伝えられている。当時、江戸における庶民の住居は、草葺きかこけら葺きが多く、
火災がおこれば飛火によって類焼により大火災が頻繁におこり、幕府は火災から
建物を守るため、屋根に銅を葺き替えることを提案した。
しかし、銅屋根が葺けるのは商売人や金持ちだけで、庶民の生活にはせいぜい
軒先飾り程度にしか使用されなかった。
主な建物・・・
日光東照宮・透塀他銅瓦葺き
名古屋城・天守銅瓦葺き
京都御所・清涼殿他銅瓦葺き
(明治時代)
明治に入り文明は急速に進展し、銅板が圧廷により大量に生産されるようになった。
明治の初期は建物も西洋文化が入りみだれ、新しい西洋のの建物が官庁や銀行、
外人所有の家屋、会社などに利用され、これらの建物に銅板が盛んに使用された。
主な建物・・・
第一国立銀行・屋根全体青銅瓦葺き
赤坂離宮・屋根銅板葺き
帝国京都博物館本館・屋根銅板葺き
ニコライ堂・ドーム状屋根銅板葺き
(大正時代)
大正9年12月に施工された市街地建築物法の『第八防火地区』の項において
金属板のことが記載されており、銅板は防火として法規で認められた。
地震や火災に丈夫な銅板が脚光を浴びた。
(昭和時代)
銅板の壁面化粧張り建築は、大正12年にはじまり昭和2年にはピークに達し、その後
順調に施工件数が増えていったが、昭和13年頃から利用が減っていった。
銅板の化粧張りが減った原因は、昭和12年の日華事変による軍需用の銅利用制限が
公布され建築物への銅使用は、一件当たり100kgを超える場合は許可制になった。
こうした理由から建築向けの銅利用が徐々に姿を消すに至った。
戦後の銅不足から新しい銅板屋根は激減した。
昭和30年代に入り神社仏閣や城などの復元、新築工事などがはじまり、徐々に
銅板が使われるようになった。
日本銅センターでは、昭和55年から57年にかけて、銅板屋根普及のために
全国建築板金関係者1万名を対象に銅板屋根技術講習を実施し、『住宅用銅屋根
標準構法』を作成した。
主な建物・・・
東京駅・屋根銅板葺き
銅板でできた建物には歴史がありますね。
それ程、長持ちがするということでしょうか。
次回はその銅板についてのQ&Aについてアップいたします!!
by kshimaco
| 2009-01-16 11:55
| 外壁